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「傷つきたくない文化圏」と、それを織りなす発明の数々の将来について

 

はいはいどうも。

最近は忙しくさせてもらっており、仕事をやったりスプラトゥーンをやったり美味しいご飯を食べたりカメラ買ったりしてたら上半期が終わりました。あー、来年がんばりますはい。

 

いつかのなんかで、ハヤカワ五味さんの「傷つきたくない文化圏について」というものを拝見した。

記事としてはこちらでござる。

「傷つきたくない文化圏」について。

https://note.mu/hayakawagomi/n/nbc55daef4fd0

 

どどすこすこすこマジ☆聡明。

っていうところでとても興味深く拝読した。やはり若年層文化に近いところにいて、かつ感覚的なものに対する言語化能力というか、コミットメントがしっかりしていて非常に勉強になった。

そしてそれを読んでおじさんなりに思うところがあったので、メモっておこうと思った。

どちらかというと、(やっぱり)当事者にはなれないので、周囲に立つ観測者としてのことばになってしまうのだけれど。

 

「オンライン」という透明性によって生まれた光と闇

インターネットの普及は、物理や時間軸的な距離における人々の可動域を飛躍的に増幅した。つまりは遠くのこともわかるし、すぐ近くのこともわかるし、昔のこともわかるし、リアルタイム性についても人間の今までのメディア体験を拡張し続けている。

隣町のことは次の日の新聞を見なくてもわかるし、遠くにいる友達と話したければいくらでも無料通話ができる。そういうことだ。

その前提で以下の文を読むと、その社会の変化におけるデメリットが垣間見える。

GZの教科書的には、ローラさんのやっていることは王道で間違いなく支持されていいのに、実際にはそうはいかない。それが世界規模のGZと国内のGZとの乖離と感じている部分です。

では、何がそこまで「気に障る」のでしょうか。

ここからは自分の仮説になるのですが「GZの教科書的なことは、余裕がある人でないとできないことだからイラっとする」と考えてみるのはどうでしょうか?

環境問題とか、動物愛護とか、そういったことを余裕の中で取り組む態度を見せられることによって、自分の現状に気づいてしまうことになり反発せざるをえないのではないでしょうか?

つまりは、他人と自分という、「要らぬ比較」ができるようになってしまったのかもしれない。

いや、実際に要るか要らないかはわからない、ただ以前は確実になかった比較が発生しており、ここに差分(それも先天的なものほど)が生まれた時に、若い人たちの中にはそれをスルーする感情がまだ用意されていないのではなかろうか。

別のクラスの同い年のアイツにはすごくかわいい彼氏/彼女がいる、大学の頃友達だったアイツは今日も美味しそうな高級フレンチを食べている、同じ会社のデキる同期はまた海外旅行でブランド物を買いあさっている、などなど。

本来、知り得なかった情報による空気的なマウントにやられてしまう。なるほどちょっと理解できるな、と思った。

 

しかも、今まで交わらなかったはずのコミュニティ同士がインターネットで垣間見えるようになってしまったからこそ「自分よりも傷つかずに生きている人がいる」といった嫉妬の感情も生まれますし、自分から情報を得に行き自ら傷つくといったように傷つく機会も増えてきたと思います。

まさにこのくだりである。

 

共通の敵を作り安定を図る過剰な自衛勢力の暴走

そして文章は以下へと続く。

さらには「#metoo」などのムーブメントの解釈もあらぬ方向に向かい「自分が傷つけられたら、相手を人生から退場させることもアリなんだ!」と正義(?)の炎を燃やす人も増えたように思います。最近のtwitter上では、毎週のように違ったテーマで議論の皮を被ったネットリンチが許容されているように見えるのですが、これでよかったんでしたっけ?

ここで先ほどの話に戻りますが、つまり私のここでの仮説は

「経済的・精神的に余裕がなくなる」

「自分にはできないことをしている人を見ると、自分への劣等感で傷つく」

「傷つきたくない文化圏では、傷つけられた場合ぶん殴って良いっぽい」

「めちゃくちゃぶん殴る」

みたいな流れが、昨今のtwitter上での苦手な空気感の正体かもなあということです。

 

(若年層を中心に)余裕がなくなる、という正体は人々を取り巻く情報や時間の流れが加速度的に進んでいて、かつ所得自体が上がらないために体感的に生じているものだと解釈してる。これは実際に発現しているようだし、個人的にヒアリングをとった大学生や会社の新人達も「誰かと比べ、比べられて疲弊してきた人生です」と言っていた。

つねに足りない足りないと発破をかけられながら過ごすのはさぞ苦しかろう、という気持ちになった。

そして一方で、インターネットがもたらしたマイクロコミュニティの形成・維持のしやすさにより、傷つきたくないという派閥が「自分たちの存在の安定性を図るため、共通敵を作り出しみんなで叩く」という力学まで、地続きになってると理解できた。

 

“誰かを否定することで自分を省みることから焦点をずらし、安心を図る”という構造が、また別の傷つきたくない文化圏やコミュニティを生み、負の連鎖でSNSを汚染して行く。

 

なるほど、昔から「空隙こそが人生にとって最も猛毒である」とはよくいったものだ。

 

これからのインターネットで生きるなら、退屈から身を守れ

確かに、余裕がないとか冗談通じねえみたいなのは昨今SNS触ってるとよく思うところで、単純にみんな切羽詰まってるからなんだろうなっていうのと、今度は苦しい人とか切羽詰まった同士、あるいは余裕あるもの同士で結局コミュニティが形成されていくので、思想や文化が再強化されていく仕組みになったなーと感じることが増えた。

以前(10年ほど前)のような、変人しかおらず、誰もが自分こそが一番まともであると思いながら大喜利を日々繰り返していたあの牧歌的なTwitterやインターネットはもはやない。インターネットは深夜番組からゴールデンタイムの番組になった。ルールや安全性が整備され、誰でも歓迎され、そしてやさしい(ようにみえる)。

 

技術やサービス、日常は進化していく。それは進化こそがこの資本主義において優位を取れる唯一の最適解だからだ。便利なものにヒトモノカネは集まり、ゼロサムゲームのなかで勢力を増して行く。あるいはオセロのゲームのように、じわりじわりと面を自分たち色に染めて行く。

 

ただし一方で、ジェネレーションZの世代は「もうこんなに便利じゃなくていい」と叫んでいるのかもしれない。もっと解決されるべき問題があるのだ、と。

 

資本主義経済に乗った発明品と人間的豊かさの行く末

人生における退屈という時間との付き合い方って、たぶんこの先すごく求められるんじゃないかなと思っている。だいたい伸びてるサービスって、「時短で便利」か、「退屈しのぎ」か、なので。

つまりこのお題、自我の未熟によるギャップなのであれば、自我自体を発達させて解消するというアプローチもあっていいんじゃないか、という発想をしたい。
誰かを名付ける、名乗らせる、認める、そうすることで「要らぬ比較」から自我を守る。そういうアプローチで安定的に、日々をコツコツと前進させていく。

コーチングが脚光を浴び始めているのも、たぶんこの辺にミソがあると思っている。みんな誰にもなれないなかで、「誰かになろうとしている自分を名乗りたい」のだ。

 

意識高い人をたたくのは、「正しさによって名乗りたい自分を諦めてしまった人たち」なのだと思う。「それはできない」「今からじゃ遅い」「絶対にうまくはいかない」「●●君はちゃんと有名なところで仕事をしているのに」「あなたは普通にしてればいいの」など、きっと傷つきたくない別の勢力から殴られ続け、そして傷つくのをやめてしまったんだと思う。

 

 

そういう人になんらか救いを与えるマーケットもあるんじゃないか。

答えはない、答えはないけど意思はある。

ちょっと頑張ってみたい。だって令和最初の夏だもんね、いいじゃんちょっとはみ出すくらい。

 

 

なんつって。

 

 

書籍としてはこの辺が示唆に溢れてたので、お暇でしたらぜひ。

暇と退屈の倫理学

 

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