3連休、いかがお過ごしだったでしょうか。
私は財布を落としましたよ、高橋です。
いやはや、財布って落とすと大変なんですね、財布というか、正確にはカード類でしょうか、いやはや大変でした。
それはさておき、仕事なりプライベートなりで最近大学生たちとコミュニケーションをとることが増えてきたのですが、「価値判断基準の外部化」という話になったので、忘れないために考えたことをここに書いてみようと思います。
ちょっとばかし生意気を利きます。ご了承ください。
Outlines
学問と学習
学問と学習は違う。その目的も過程も異なる。ちゃんと認識できているだろうか。
大学生となってからは、自分自身の生活も、付き合う人々も、目耳にする情報もどんどん広がり、多様化し、自由になっていく。なのであれば、そういった環境を有効に活用できるように、そして自らの身を守れるように、学問の出来る思考の基礎体力を付けていきたいところ。
学習の話
先生がいて教科書があってそして正解と不正解がある。
学習における指標は、再現性の成績であり、これはつまり「誰がやっても(正しいとされる)同じ結果にたどり着くこと」の精度検証である。
試験においては「問題」が与えられ、公式を活用し、「解答」を提出する。
この解答が「模範解答」と近ければ近いほど、得点は高くなり、評価される。
学問の話
一方で、学問には「問う」という字が付くように、答えを導き出すものではなく、問題を見つけ出すものでもある。と思う。
教科書、先生、インターネット、どこを探しても模範正解も模範不正解もない。
この不正解がない、というのが意外と知られてないのだけど、学問が「不正解」と下すのは、問うのを辞めた瞬間であって、考えの的を外した時ではない。新しいことに関する思考において「正しくない筋道を知った」ということは不正解にはならない。
何が分からないのか、何を知りたいのかを作り出し、そして世の中に、時には自身に問うていく。これが、「学問」なのかなあと思うのである。
問いを生むか、解を消費するか
問いを生むか、解を消費するか。人間の思考活動は大きくこの生産と消費に分類することができると思っている。
いわゆる、思考のガードレールみたいなものがあると思えばわかりやすいかもしれない。何のガードレールがなくても道を歩くことの出来る者もいれば、それが道だと分からなければ、歩けない者もいる。
前者は「道とは1人以上の人間が歩いた場所であり、その1人目に自分がなったとしてもおかしくはない」と思える人間だし、後者は「なるべく多くの人が歩いた場所」と捉えているのでしょう。
どちらもアリだ。異なる行動だし、異なる性質のものなのだから「どっちかしか」なんてシーンはない。
答えを知るには、学習の方が効率も良い。それでもやっぱり、外部から解を得ることは「消費」で、自分から問い(ひいては世界初のその解)を生み出すことは生産的な活動になる。特に、インターネットやモバイルデバイスの普及したこのご時世においては。
これも、両者がことなる性質の行動なので、仕方のないこと。学習の方が、簡単な世の中になってきたのだ。
そして、世の中には「希少性優位の法則」がある。珍しいもの、数の少ないものに価値が集まるという法則。
得られる経験値や報酬はスライムとメタルスライムくらい違うと思っていい。
いつまで経っても同量において、鉄は黄金には勝てない。
そして、同じ人間一人の量は変わらない。黄金の経験の差分だけ、もしかしたら人の時間の過ごし方に差がつくのかもしれない。
希少性は、みんなのしない挑戦や経験に宿るとしたら。もし、人生を優位に進めたいと思うのであれば、何もせず、自身の商品価値を失墜させることほどリスキーなことはないと、自分は思う。
価値基準の外部化
学問と学習行為の大きな違いに、価値判断基準の所在がある。
学習には明確な「模範解答」が存在する。これは、たとえば普遍的な原理原則かもしれない、学校の先生かもしれないし、習い事の師匠かもしれないし、会社の上司かもしれない。
「誰がやっても(正しいとされる)同じ結果にたどり着くこと」が目的なため、模範解答がブレてしまうことを危惧して、大体のケースで学習の解答は客観的ものであり、それが故に思考する被験者から外部化されている。少なくとも、自分自身で「正しさ」を確定できない、それが学習の弊害になる。
何が正しくて、何が間違っているのか、学習は、それ自体自分のなかに答えを持たない。
思えば、小学校にはじまり、中学、高校とステップアップしてきた今日まで、勉強と言えば「再現性の鍛錬」ではなかっただろうか。教科書で習い、覚え、そして試験で問われる似たパターンの問題に、それらをアウトプットしていく。
すくなくとも、この国の義務教育と呼ばれる過程では、この再現性教育によるガードレール内のレースが敷設されており、そして学生であった頃の自分たちは、それに何の疑問も持たず従ってきた。
(時折、ロックの利いた、盗んだバイクで走りだしちゃう学生もいたかもしれない)
もし、あなたが学校と呼ばれるものを卒業していたとしたら、土日なんかに考えてみるといいかもしれない。
あなたの「よいと思う」というその基準、いったい、だれのものだろうか。
安定志向なら公務員
一部上場の大企業なら勝ち組
夢を追うよりサラリーマンになってしっかり自立しよう
これらは、いったい誰の価値観だろう。
自分なりに100%納得が出来ればよい、価値観が近しく、同じものをよいと感じることはいくらでもある。
ただ、納得の出来ないものに納得をしていたのであれば、それはちょっと待った方が良い。
メタルスライムのいそうな場所を、逃してないだろうか。彼らの逃げ足は速い、そして何しろ硬い。でも、こちらがやられて死んでしまうようなリスクはほとんどない。
常識や公式に「?」が浮かぶそのたびに、もしかしたら抜け駆けのチャンスじゃないだろうか。
結局、自分しか残らない。だから背骨を強く持とう。
世の中は、すごいスピードで切り替わっている。
インターネットが世の中に出てきてまだ20年だ、スマートフォンはここ10年、FacebookもTwitterもまだ10年たっていない。LINEもまだ5年。
みんな、おそらくあと5年や20年は生きるのかもしれない。そしたら、まだ2016年の今日なんて、ただの折り返し地点だ。このままいけば、iPhoneは「iPhone14」が出てる頃。はたして本当にそうか?
たとえば、10年前の就職人気企業ランキングを見てみたりする。
世の中、これからどうなるかなんて問いには、今も昔も誰も答えられない。自分自身がどうすべきか、なんて問いの答えももちろんどこにも落ちていない。
自分は、特に流れの速いと言われるインターネット産業や広告業界にいるので、殊更にそう思うのかもしれない。でも、やっぱりどの業界でも「めっちゃ強い」と思われてた企業が業績や信頼を落とし、そして撤退や吸収を余儀なくされてきたりしていたと思う。何が起こってもおかしくはないし、「確実に何も起こらない」なんて言えない。
その時、学習の過程で君を守ってくれた教科書・先生・公式は、残念ながら自分を守ってくれるとは限らない。世の中には、常識が崩され、別の常識が何の不自然もなく成り立ってしまうことがある。10年間の今日、いったいどこのだれが、世界中の人々が表面のつるつるした薄い板を目を細めて擦りまくってると予想しただろうか。
Appleのスティーブ・ジョブズは、もしかしたら考えていたかもしれない。
彼は、彼だけは、彼自身の問いに答えを出した。「携帯電話は、もっと進化できるのではないだろうか」という問いに答えを出してみた。
世界を変えてしまうのは、いつだってそういう一人目だったりするし、そういうやつらはガードレールの外を歩いてきた。
ガードレールのない道だって、駅のホームの黄色い線の内側も外側も、ただの道と一緒だ。ガードレールがないこと以外は。
世の中、ちょっとはみ出たりすると、すごくいろんなものが降ってくる。
だけど、それに負けない背骨を持とう。シャキッと、自分の納得のいくように姿勢を保とう。
これから、学問できないやつは苦しくなると思う。
なんというか、仕事をしていて特に思うのが、再現性に対するリターン(報酬)は今後どんどんタイトになっていくだろうということ。
正直、特定の公式やパターンのなかで勝負しても、絶対に機械連中、いわゆる人工知能だの、なんだのには勝てない。そんななかでも、人間の雇用が終わらないのはちょっとした想像性への期待と愛着だったのだろう。やっぱりちょっとしたハプニングやイレギュラー対応はまだ人間のほうが強い。
とはいえ、そのパイは機械による効率化をシビアに見ていくと完全にただのコストだし、当然そんなもんに払うお金は今後目に見えて小さくなっていくわけで。
自分自身が、この辺をちゃんと組織や企業に導入し、活用していく画を描いていたりするので、特に強く思う。再現性においては機械には勝てないし、機械以下の報酬で働くのは本当にキツいと思う。そんな人生でいいはずがない。
そんなこともあり、大学生は、もしかしたらたまには学問する、ということをしれっと意識してみるのもいいんじゃないでしょうか。
イヤホンを耳から抜いて、スマホもしまって、適当に大きな河や海を見ながらぼーっと腰を下ろして考え事をするのも悪くなかったりする。
自分も今週は、どこかで早めに帰宅して海でも行こうかなあ。
なんつって。