いつ~の日もこの~胸に~流れ~てるメロディ~
眠たくて帰りたくて~心が叫ぶよ~
Mr.おつかれさまです。わたしです。
先日、メディアの生存戦略について議論してたときにでた会話。
>コンテンツマーケティングで勝負するネットメディアって、そもそもPVとかCVsとか滞在時間とかじゃなくて、コミュニティを指標にするべきなんじゃねえか、と思った次第。
っていうのはどういうことなんでしょう?
というわけで、もう少し踏み込んで書いてみます。
Outlines
◆メディアとサービス
完全に個人ルール
なんですけど、自分はメディアとサービスという言葉を使い分けております。
基本的に、そのブランド上でユーザーがなにかアクションをするかしないか、で分けてます。(ふんわりと)
旅行の領域で言えば、Bookingさん、じゃらんさん・楽天トラベルさんは「アクション(≒この場合は予約)をする」のでサービスです。
一方で、Findtravelさん、Retripさんらなんかは検索上位でカスタマーとの接点は非常に大きいんですが、なんらかのアクションが発生するものではないのですね、これらをメディアとします。(勝手に)
なんでそういう分け方したの
で言うと、タイプが変わればビジネスモデルも異なり、金の流れが異なれば世の中での立ち回りも異なるから、であります。
前者はつまるところリクルートさんでお馴染みなリボンモデルになりがちで、クライアントから原資を集め、メディアをアクションのための集客装置として育てていきます。
一方の後者は顧客のみに向き合う形になるので、toC接点を強めていくわけですね。そうなるといきなり原資は集まりにくい→コストのかかる質よりも「速く・大きく」で差異化につなげるので、自動的にレギュレーションは緩くなり、いわゆるキュレーションなんたらが出来上がるわけです。自分たちでつくるより、いっぱい勝手に集まったほうがいいもんね。間違いない。
◆メディアを運営する≒育てる
この後者の、おもにコンテンツマーケティングと言われる、モチベーションファネルの浅いユーザーへの接点づくりなメディアの運営なんですが、はたして顧客との最大数をとる、でいいんだっけ??が最近高橋の考え事なわけでして。
世の中、ありとあらゆるキュレーションなんたらが跋扈するいんたーねっつでありますけれども、キュレーション自体、なかなか死期の早いモデルにあるわけです。
リソースが外部頼み、参入障壁が恐ろしく低い、そもそも儲かるマーケットは既にレッドオーシャン、などなど死因はいろいろですが、やっぱり戦略的観点における死因の中心としてはレギュレーションのトレードオフ(質&量)を誤って弱体化して死ぬor法的規則および偉い人たちに刺されて死ぬ、です。
死なないように、強くしなきゃいけない。
死なないように、強くしなきゃいけない。そう思ったんですが、メディアにおける「強さ」ってなんじゃいと思ったときに、経済合理性の壁を越えられるかどうか、にあると思ったわけです。
たとえばメディア運営(アウトソーシングベース)の限界には下記のようなものが想定されます。
・ライターが契約違反しちゃう
・ライターが書いてほしい単価で仕事を受けてくれない
主にリーガルとコストの面で限界に接することがあるかもしれないという感じですね。
◆強いメディアには何があるんだ。
じゃあ、「違反なんかしない、忠実なライター」と、「コストをバリ低くしても記事が担保できてる状態」を実現できれば、強いメディアに育ってると言えそうだ、と。
それらを実現するにはどしたらええんじゃい、と。
そんな無償で、無償で価値提供だなんて、そんな、無償、無償の…
愛・・・・!!!!!
というわけで、人が合理性から離れた行動を起こしてしまうとき、それは”愛ゆえに”だったりするわけです。
そう、愛。
愛にあふれたメディアを作ればええんじゃ。
っていうわけで、コミュニティの醸成をひとつ狙いに行きたいな、と思った
この話、ギャグでもなんでもなく個人でライターとしていくつかのメディアに寄稿してる学生とか主婦ライターとか、完全な売れっ子フリーランスなんかにヒアリングはしておりまして、やっぱりコスト(気を付けたいのは、彼らからしたら収入そのもの)をなんとかしてでも協力したくなっちゃうメディアもあるらしく、担当者が見えるとか、記事のフィードバックがちゃんとあるとか、そういう感じでいいんだそうですよ。
みんな好きでやってるので、ライターを大事にしてあげると、意外と享受できるメリットも大きいのだそうです。
また、事業責任者的な事情でアレですが、数字に落とし込める部分を最適化すると、いわゆるキュレーション風情とやることや出来上がるものが同質化してしまい、それはそれでSEO観点からリスキーだろう、という意識もアリ。
うーん、メディアって深い。
なんつって。