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物語を生み出す新海誠監督の戦い方〜天気の子展にいってきた。〜

なんで今更、というタイミングでの投下になるんだけど、ようやくRADWIMPSがサブスク解禁してくれたという嬉しみもかねて、文字にしておく。

2019年の夏に、そういえば全然見てなかった『君の名は。』と、その勢いで公開直後の『天気の子』を観た。ストーリーもさることながら、とにかく映像と音楽のクオリティが高く、今までの映画体験とはまた異なる体験だった。

新海誠監督の作画は光の描写と背景などの書き込みの細かさなど、まずは「クオリティでぶん殴ってくる」というイメージが強かったのだけど、テーマの切り口やストーリーから浮かぶ上がってくる問題提起なども非常に現代的で、作品はもちろんだけど、新海誠監督に対して「どういう人なんだろう」という興味が湧いてしまった。

まだこの世にないものを、感覚的に創り上げていくことの難しさやすごさ。

特に気になったのが、その「仕事の進め方」である。映画、それも俳優などのアナログな出力表現ではなくアニメ映画といったデジタルな表現において、どうやって監督というポジションで周囲の人たちと感性的なコントロールをしているのかが気になった。

というわけで、行かないわけにはいかなかったのがこの「天気の子展」だ。

仕事をしれっと抜け出し、ギリギリ滑り込みでいってきた。

130億円を生んだ「最初の企画書」を見た。

この展示の個人的な目的は、「構想当時の企画書をみること」だ。そもそも映画の企画書ってどういうもんなのか、というか、あんだけすごい映像作品を「これでいこうとおもってます」と言えて、周囲を説得できる初期のアウトプットってどんなものなのか。まったく知識がなかったのでとても気になっていた。そして幸運にもその現物を見ることができた。

それは、なんと「3段落の短い文章だった」

物語の始まりと、ピーク、そしてラストのみが淡々と書かれた文章だった。文字数にして200-300文字くらい?原稿用紙1枚以下だった。

もちろん、その後持ち込み用の企画書になる。だけど、あの興行収入数百億円という経済インパクトをこの世にもたらした物語も、最初はこういう小さな想像が、始まり方なのかと思うと、なんだか安心というか、ほっとしてしまった。最初の最初からいきなり完璧じゃなくてもいい、そう背中を押された気がした。


持ち込み用の企画書

やっぱりさすがの新海誠監督も持ち込み用の企画書は作るみたい。最初から資本的なバックボーンが強いのかと思ってたんだけど、思ったよりも僕らと似たスタイルでの商談や営業もあったんだろうな、と思った。

ストーリーのディティール、キャラクターやセリフ、そして物語の象徴的なシーンに簡単なイメージ画像も添えられたもの。かなりライトなライトノベルに近いイメージ。

持ち込みを通じて物語のブラッシュアップを並走させていく

監督の直筆で、いくつも修正点や論点がマークされていた。「プロットの弱さ」「何を当たり前と刷り込んでどこでひっくり返すか」などの設計がかなり綿密に練られていた。

導入、中盤(安定期)、そして終盤(どんでん返し)というかたちで1行でプロットが語られたものがアウトプットになっていた。

1行企画というフォーマットも見られた

今回でいうと、「島から出てきた少年が東京で貧しい暮らしをする→オカルト誌でアルバイト→ヒナ(当時はヒナタ)と出会う」「二人で天気ビジネスを始める。その背景で天気の巫女などの陰りをすこしずつ出す」終盤になって「天気の巫女としてのヒナタの喪失、それに対し世界と対立し突破していく穂高」があらすじ。1行のフォーマットとしては、「若者と社会の不和、そして成長と突破を、天気をテーマに描く」といったもの。

もともと学生時代に某総合広告代理店に片足突っ込んでプロモーションの企画やプランニングを勉強させてもらってた際に、「1行で説明できない企画は純度が低い」「1行で言えるように煮込み続けろ」と耳にタコができるくらい聞かされていたのだが、「なるほどすぎるわ」と思った。

おそらく、共感しやすい問題提起は後から隠し味として入れている

もともとは「天気予報の君」という名前だったし、ヒナとの出会いはSNSのアカウントを発見する、というものだった。実際には、もう少し稀有な出会いかたになるんだけど、SNSで知らん人と会う、というのはここ最近の若い人たちにはストーリーの始まり方として共感されやすい起点だとおもう。でも結局はそうしなかった。物語の全体の対立構造をより鮮明に印象付けるような方針をとったのだ。これはとても正しい修正だとおもった。

物語の背骨になる構造を活かすプロットに修正し、統一感を磨き上げる

若い世代が、意識的に自分たちで何かを選び取るという物語を書きたかった。監督自身も構想の段階で「この物語は、穂高と世界(現代社会)との対立であると気が付けたところがブレイクスルーになった。」のだそう。

そして監督自身が一人の”大人”として発信したいメッセージを込めた

この時代、この世界に生まれて生きているということは、誰も選んだものではなく、理不尽なゲームである。だけど、この時代を作り上げてきたのも、自分たちであることは間違いない。

劇中に多用される「大丈夫」の言葉は、もしかしたら作品を作っていく上での監督のメッセージなのかもな、と思った。もしまた観る機会があったらこの辺も注意しておきたい。

新海誠監督の仕事術は、「ひとにやさしく」だった。

原画などもいろいろ並んでいて、興味深く拝見してたのだけど、とにかく驚いたのはほぼすべての原画(ラフ画)に手書きでメッセージを書いていた。基本的には「よろしくおねがいします」とか、「●●の部分が大変だけど、お手数おかけします」などといった、細やかな気遣いと、柔らかい表現、信頼、そのうえでのリクエストだった。すごい。とんでもない数のラフに対して本当にほぼすべて手書きでメッセージが書かれていた。プロジェクトチームのすべての仕事を絶対に無下にしない、というスタンスからは大いに刺激を受けた。

またプロデューサー以外のポストとして、「構図監督」「色彩監督」「VFX監督」がいたが、監督自身はあまりピラミッド型の動きをしていないように見えた。組織の統治と実際のコミュニケーションフローは異なるというのを学んだ。意外と人間的で、これもなぜか自分を安心させてくれた。

共通言語と名付けを行う

劇中には参加するが、個別には言及されない架空の生き物(天気の魚)にもちゃんと名前を与えて呼びやすくしていた。また生態に関しても細かく設定していき、現場での判断や表現がブレないようにされていた。決して最終的なアウトプットからは見えなかったとしても、そのプロセスにおいて重要であればしっかりと細かく設計し、劇中のブレをなくし現実感の裏付けを強化するというのが、新海作品のリアリティにつながっているのかな、と思った。

映画監督と重ね合わせた「人材として試されていること」

やっぱりスペシャリティのあるメンバーのポテンシャルをどれくらい出して、成果物を計画以上のものにするのか、を試されている気がした。もちろん高度な専門性をもったスペシャリストやタレントを多く抱えることは組織やプロダクトの強さになると思うんだけど、じゃあ彼らが彼ら以上の成果を出すにはどうしたらいいんだっけ、の思考を放棄してはいけないんだなと再実感した。

いわゆるソフトスキルで食っていく、ということになるんだろうけど、コミュニケーションだとか、物語を作り、修正し、動かしていく力とか、そういう総合力が、業界は違えど、自分が今向き合うべき課題なのかもしれない。まだないものを形にして、現実の人たちの心を動かす、という大枠では全ての仕事人がやっているであろうことの、ひとつの頂点として非常に示唆に富んだイベントだった。ありがたい。

この気持ちを忘れずにやっていこうと思う。

あれ、なんかまじめになっちった。

なんつって。