【組織論】成果主義の限界について考えなければならない

ついに2月が終わりました、つまり3月が始まりましたね。

#あたりまえポエム

おつかれさまです。

いよいよ3月、出会いと別れと異動と査定の季節ですかね。人事よ、遠き人事。まぶた閉じればそこに。

そんなこんなでそれなりに頑張ったり適当に(いい意味で)やってるわけですが、個人的に今のポジションについて「成果主義の限界について」を考えねばならないな、と少し悩んでいるわけです。

◆成果主義は流行っている。

成果主義。とても流行っています。

若手でも活躍できます!!みたいなところは大体成果主義だし、無駄な人件費を削って少数精鋭で頑張ってます!!みたいなところも大体成果主義。

何にもしない老害は排除じゃー!とか、柔軟なワーキングスタイルを奨励じゃー!って言ってるあの企業も、大体は成果主義。

利益の創出と、それを抱えるコストが、バロメータとして重要にされている。

「給料に見合った分の組織貢献をしてくれれば、裁量のもとに自由にどうぞ。」っていうのは、だいたい成果主義だ。

ただ、短絡的な成果主義はダメだ。そこには限界と落とし穴が存在する。

◆成果主義の落とし穴

短絡的な成果主義はの落とし穴は、広告やマーケティングでいう間接効果を軽視したポートフォリオ構築、ラストクリック偏重に狂ったアトリビューションモデルの欠如ともいえる。

100人中2人くらいにしか理解されない表現をつかってしまったのでもっと汎用的な表現を使うと、

シュートして得点したプレイヤーは評価できるが、パスを回した選手を評価しない

治療を施した医師や効果のあった薬を評価できるが、日ごろの予防週間は評価しない

とか。

厳密にいえばこの事例も文脈が異なるのだけど、とにもかくにも「”成果にはカウントされないがシステムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい”を評価できない」という部分が、組織というより何かの存続にとってとってもよくない。

もちろん、「何も起こらない状態を維持した」ということで評価のされる組織やチームもある。そういう思想の洗練されたところに所属できているのはとても幸福なことだと思うし、うちも一部の職種にそれを導入するようにしている。

だがしかし、すべての人間がこの大事さに共感してくれるとも限らない。

やっぱり、「華々しいスコアラーがカッコいい」風潮がマジョリティを占める。

◆どうすればいいんだろうか

だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。
私たちの社会システムはそんなふうにしてしだいに危険水域に近づいている。
「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。

Who is to blame?

と、内田樹先生は言ったりしている。

そうなんだよね、そうなんです。

個人的に、一緒に仕事をするとなった人に最低限お願いしたいことに「人格と仕事の区別をつけること」がある。

これが、いろいろな意味で組織の成熟度をステップアップさせる重要な文化の一つだと思っている。

◆人格と仕事は分けて考える

こちらも何らかの責任をもって仕事をして、それが上手く機能して会社やサービスが成長し、そこに売上が生まれ、利益があり、賃金が発生して生きている。

なので、私は仕事を大変真面目にこなす。

なのでアウトプットを評価し、よくないものがあれば指摘もする。

それは取引先・ユーザーのためでもあり、組織のためでもあり、その組織から給料をもらって生きているその人のためでもある。

それだけじゃなく、その人の周りの人、チームのメンバー、自分、会社にいるすべての人のために、正しいものは正しくあるべきだし、アウトプットのレベルは求められた水準をクリアしているべきであると考えている。

なのでその水準を下回っていたら、できることをしてその水準を上げたいと思う。その手段のひとつに、指摘という方法がある。

世の中には、このアウトプットへの指摘を人格の否定や攻撃と捉えてしまう人がいる。

そうでない人も、もしかしたらコンディション的によくないときに、混同することもあるかもしれない。

それだけナイーブな認識のフレームワークだ。

この混同が導く、最悪の状況は「改善につながるコミュニケーションが出来ない」ことに陥ること。

そのアウトプットを個人と紐付け、個人に指摘することを悪とすると、その人のアウトプットの質がどうであれ、それを組織の意見として、全員が責任を持たなければならなくなる。

これはしんどい。そもそも、一人の意見が効力を持つのであれば、いったいなんのための組織なんだろうか。いわんや、その一人のアウトプットのために、全員に責任が発生する、となると、もはや何のためにみんなが会社や部署というくくりで集まってるのかが、合理性観点から理解不能になる。

アウトプットの質が一定なのであれば、そこにかかる責任は、不用意に大きくないほうが良い。

つまり、組織で集まることがよくないことになる。

◆みんなで責任を持ち、みんなで改善をする集団たれ

ほとんど言っちゃってるんだけど、そうなんよね。

誰のせい、誰の成果、どこからどこまでが誰なのか、といった議論をなくすのであれば、全員が首をつっこみ、全員が責任を持つ、それによって「全員の成果」として評価できるよね、というもの。

何かしらのアウトプットが、何かの組織の公認アウトプットとなり、組織がそれでなんらかの評価をうけたとしても、それが個人の責務を特定しないような体制を構築すればいいよね。

◆とはいったものの、答えは出ない。

「予防」という縁の下の力持ちを評価しないと、システムは危険水域にどんどん近づいていく。

だがしかし、適切に評価する方法は、まだ見つかっていない。

これ他の会社や組織はどうしてるんだろう。

「面接の終わりのほうにある質問が思い浮かばないんですよねえ…」とか言ってる就活生のみんな!!!!!おれ死ぬほどこの答えに悩んでたりするので、質問して、その回答をおれに教えてくれ!!!ごはんおごってもいいから!!!

これが、いまの自分の状態です。なんらか評価はするし、称えもするし、労いもする。ただし、それが誰にでも伝わるような、そんな方法を考えなければならない。

もちろん規模や個人、組織文化、いろいろな変数はあるので、ここで考えたりそれを書いてどうこうなるわけではまったくない。

なので、別に書かないんだけど、ある程度俯瞰し、俯瞰した者を評価する立場と責務を与えられた自分自体が、こういった視点や観点を忘れちゃいけないな、と強く思った。

っていう、めちゃくちゃに忙しい3月の頭でした。

ウーム、帰ろう。

なんつって。

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