あついですね。ぁっぃ。
日々、情報や知識を得るためのワークとして、テキストや書籍を読む、ヒトに話を聞くなどのインプットや、ブログを書く、講演をするなどのアウトプットが存在していることは、もはや説明を要するものではない。
そんななかで、「どうやって情報収集をしていますか」という質問をもらうことが多くなってきたし、その度に「そもそも収集以前のお話」っていうのをすごく話していることがあるので、これについて書いてみることにする。(とか言ってまた音声入力なんだけど)
情報の次元について
次元という表現というか、数え方が正しいのかはちょっとわからないけど、その情報がいったいどんな性質のものなのか、というのは常に念頭に置きながら接している。
ざっくりだけど、情報の次元は低いほうがより事実に近く、オリジナル性があり、量は少なく、しかし有用性が高い傾向にある。要するに、貴重だ。
0次情報から数字が上がっていくにつれ、「解釈」「編集」といったフィルターがかかっていく。このフィルターは、よいものもあれば、よくないものもある。
補足や背景の説明、他の点と結び付けて理解を助けるフィルターはよいフィルターで、逆に偏りすぎていたり、解釈が現実と異なる方へ誘導されてしまうフィルターを悪いフィルターとして考えている。
- 0次情報:「起こった事実、具体的な現実」
- 1次情報:「目・耳・鼻・口・皮膚の五感で、0次情報を本人が実際に体験して手に入れた情報」
- 2次情報:「1次情報が別の目的のためにすでに収集されていて、どこかに保管されている」あるいは参照されて作られた情報
- 3次情報:「2次情報を見た解釈がさらに流通したもの」
上記のような区分で分類している。
Twitterでいえば、引用RT(リツイート)とか、リプライ、リンク付きの解釈ツイートなんかは少なくとも2次情報以上の区分になる。
たとえば、観光庁が発表した訪日外国人の滞在日数に関する調査、訪日外国人の宿泊するホテルのオーナーの言うことや感じたこと、それをみたTwitterの反応、さらにそのTwitterの反応を見た一般人の言うこと、はすべて情報の次元が異なっている。というように見る。
情報の次元と我々
インターネットが世の中に浸透してきて、今まで以上に情報を世界に発信することのハードルは下がった。一般人のTwitterでのつぶやきと、マスコミの公式アカウントが同じタイムラインに並ぶ、そういう時代になっている。
情報が増えに増える一方で、じゃあわれわれ人間は頭でそれらが処理できているのかというと、ちょいちょい頑張ってはいるものの、実はそこに大した進化も変化もないらしい。わたしたちの脳みそは、昔から常に処理できる限界が決まっていて、それはムーアの法則のような爆発的な成長曲線とは異なるみたいだ。
選択肢は増え続けるのに、取れる量は決まっている。
何が言いたいかというと、10年前より、5年前より、1秒前より、つねに常に今この瞬間、情報の取捨選択が重要になってきているということだ。
意味のある情報や意味の薄い情報。有益な情報や無益な情報。だけでなく、さらには有害な情報などが玉石混交に存在する時代に、私たちは生きている。
昨今、Twitterをそれなりに見ていれば、なんとなく思い当たるものが各々浮かぶと思う。それくらいに、今の「情報の質」はちょっと危うい。
「生産のハードルが下がると、質も低下しがち」が情報でも起きてる
つまるところ、誰でも発言できる環境がSNSなどで整備されて来ているものの、もともと製造業界などでは「生産のハードルが下がると全体の質は低下しがち」という力学があり、これが情報に関してもおこっているな、というのが昨今の印象。
構造的には、大きく話題になるようなことがらが、発信したがっている人たちの数より極端に少なかった場合、同様の情報を横流しするだけならまだしも、なるべく注目を浴びるような解釈を追加してしまったり、再現性のない別の事象を付与して発信をしてしまうことが出てくる。
観測者としてはそのフィルターをちゃんと認識して取り込むのか、そうでないのかは結構重要で、そのまんま誤ったことを事実と認識してしまったりすることに気をつけなければならない。
この辺でも触れていたりする。
そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、
善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます
信用できる第三者と一次ソースが一番早くて安くてうまい。
結論、「信用できる第三者と一次ソース」、これに尽きるなと思う次第。
世の中にはいろんな情報が細切れになっていて、そして探せば探しただけ情報が出てくる。ただ、そのなかには「例外」も含まれていて、それらも全部理解しようとすると、いくら時間があっても足らない。どんなにニッチな領域においても、「どこまで把握するのか」というのはちゃんと考えないといけない。つまり、「どの例外から無視するか」ということだ。
上記した1次ソースと信用できる第三者について、前者は探すことがそう難しくないはずだ。そもそもそう多くないものなので、まずは一次情報に触れて純度と信用度の高い情報を取り扱い、ほかを無視することに慣れよう。
続いて、そのソースに対して、的確で、再現性のある、指摘や解釈、示唆を付与している人を厳選しよう。例外的な重箱の隅を突きまくるひともいるんだけど、例外処理を無限に増やし続けると、とんでもない負荷になる。これは避けなければこの情報過多の時代を軽やかかつしなやかに生き抜いていくことは難しい。
どうやってニュースや情報をインプットしてるんですか、と言う話は、結局のところ、「なにだけを見て、なにから無視してるんですか」という話にニアリーイコールだと思ってる。
結局のところ、情報に接するというフェーズまでは、誰にでもオープンな時代になっている。自分も毎日ニュースや配信されるコンテンツに100〜200本ほど目を通すけど、やっぱりSNS(Twitter、Facebook)やRSSリーダーに登録してあるもの、人から聞いた話(をちゃんと検証したもの)、書籍で99%だ。
つまり、「なにを見ているのか」自体は問題ではない。それをどのように処理しているのか、というところに違いがあるんじゃないかな、と思ったかんじ。
あっついね。早く帰ってアイス食べながら冷たい水をばけつにいっぱい汲んで足を突っ込もうそうしよう。
なんつって。
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