今日も都内は晴れたね。ってことで見て来た天気の子。

今作のテーマは「役割からの解放」「世界との付き合い方」に集約されると思う。

こういう人は見たらいいよっていうところでいうと、

・正しさに殴られ疲れた人

・納得いかない人生を進んじゃってる人

 

特別意識して避けていたわけじゃないんだけど、『君の名は。』もしっかり腰を据えて見たのは最近で、やっぱり「絵が綺麗」「音楽がいい」っていうのが全面に出ている作品群だなと思った。そしてそれ以上に、いろいろな仕掛けが施されてるなあと受け取った。

新海作品については、『君の名は。』以前と以降でかなり形を変えて来ているなと思うところがあり、ちょっと感想を深掘ってみることにした。ちなみにネタバレはほぼないので、安心して読んでみてくだしあ。(でも自己責任でおねがいね)

 

というわけで以下。

本作の位置付け(推察)

前作『君の名は。』は、新海作品としては異例の(素晴らしい作品たち&監督なのは間違いないんだけど、あくまで規模的にって意味で)大ヒットとなったのはもはや説明する必要もないと思うんだけど、『秒速5センチメートル』時代から見て来た観測者側からすると、『君の名は。』以降の作品は、それ以前の作品とは大きくいくつかのポイントで異なっている。

おそらくはプロデュースに川村元気さんがジョインした効能なのかはわからないのだけど、とにかくそれまでの新海さんの「絵や描写に対するストイックさ」と「新海的な筋書き」の前者をより強く伸ばして、そこに採用する音楽のトーンを統一して総合力で作り上げたように見える。

もちろん、起承転結の「結」を少しあえてハズしていく手法や、童貞イズム全開のジュブナイル最優先的な世界観は、微妙に残しつつも、実は『君の名は。』も『天気の子』も、関連作品と比較すると”それまでの新海監督っぽくない”作品に属すると思ってる。

過去の作品のテイストに関しては以下がスムーズだった。

 

また、個人的に『君の名は。』でびっくりしたのがプロモーションの投下量だった。いままでの映画のプロモーションは比較的演者や監督インタビュー頼みの低燃費型PRに寄ることが多かったものの、おそらく制作の段階でいくつかのメーカーやステークホルダーとの会話を開始して、本来ではマスキングされるはずの作品内でのメーカー商品の設置や描写が可能になっていた。これにより見てる側としては細かすぎる背景描写と合まって一気に作品にリアリティを感じて引きずり込まれることになる。

プロダクトプレイスメントがいい。

これを広告の業界では「プロダクトプレイスメント」なんて呼んだりするけど、そもそもフィクション前提で描かれるアニメ映画ではここまでの規模のプロダクトが登場することはなかった。

思うに、『君の名は。』についてはこのあたりで商業的なテストマーケティングが行われていたんじゃないかと思っている。強固なメーカーとのプロダクトのアライアンスや提携、そして劇中劇外での相互的なプロモーション、これにより、(本当に想像の範囲内だけど)広告宣伝に関するコストの投資可能量をかなり拡張することが可能になり、昨今の映像作品のマーケティングに欠かすことのできないSNSをはじめとしたユーザーの口コミや話題に関する空気感を醸成することができたのではなかろうか。

イメージとしてはこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=_B9brSZXVLI

業界構造のややこしくてめんどくさい諸々の商慣習により、こういった劇中でのメーカーロゴやブランドの露出というのは、基本的に避けられる傾向があったのが今までだが、新海作品についてはしっかりと存在させることで、たとえば新宿の街の様子がそのまま現実にかなり忠実に描かれている。この配慮は効果的だし、調整も大変そうだったと思うし、シンプルにすごいなと思った。

物語を「商業的に聖地巡礼を作り出すという装置」に再定義したなーと思っており、直近の新海作品の躍進の原動力なんじゃないかなと思ってて、これは映画だけでなく、ありとあらゆるクリエイターが展開できる手法かもしれないとも思っている。すごい。

 

(職業病により)エンドロールが最高

上記の話にもかなりひきづられるんだけど、これだけリアルに存在するプロダクトやロゴ、建造物がガンガン描かれていると、気になってしまうのはその提携や調整の内容に関するもの。ここに”協力”と、それ以外という今作への関わり方の違いが現れると思っている。これに関してはエンドロールをめちゃくちゃガン見することで、劇中に現れた諸々がどういったスタンスで登場しているのかを読み解けるかも、、、と思い、作品以上に血眼になって見入ってしまった。

すべてを網羅することは一回ではもちろん無理なので、また見る機会があったらリトライしたい。

 

映画という体験型メディアの可能性

新海さんはどちらかというと、トレンドに乗ってこの潮流に挑戦しているのでは、と前作から今作にかけて思ったところ。

マーケテイング業界の共通認識として、そもそもダブルスクリーンだのスクリーンの中のアプリや、アプリの中でもアカウントを使い分けるような生活をしている現在の若者層の「コンテンツに集中する時間」というのは、非常に捉えにくいものになってきている。

テレビを見ながら、Youtubeを見ながら、インスタを見ながら、Netflixを見ながら、ユーザーの意識や興味はめまぐるしく変わっている。あのGoogleですらこれを「マイクロモーメント」と定義させられるほどには、ユーザーとの接触点は細切れになっている。

そんななかで、映画というメディアはすごい。大音量大画面でスマートフォンは操作禁止、さらに隣の人との会話すら行われない。まさに一方的に情報やストーリーをユーザーに吸収させることができる稀有な機会になっている。そしてそれに、わざわざお金を払ってくるのだから、Webのメディアやマーケターからしたら、もう意味がわからない。

でもそんななかで、正直あまり商業的な活用が進んで来なかったというメディアでもある。

そういう意味で、やっぱり個人的には今後のマーケティングのエコシステムの中の映画というチャネルについて、取り組み内容含めて注目せずにはいられない。

 

音と光と水、そして東京。絵が相変わらず最高。

これに関してはもはや語るまでもないと思うのだけど、とにかく風景描写や背景への配慮、色味、構図へのこだわりがすごくて、前作でも素晴らしいエッセンスとなった効果音や音楽もここに加わっており、さながら非常に完成度の高い長編MV(Music video)を見た気分にも近かった。

また『君の名は。』にも続き、比較的新宿区が出て来がちなんだけど、やっぱりドコモタワーは青空にも曇天にも映えますね。

そういえば前作では、色のコントラストに関する緩急が太陽と夜、そして流星の光といった具合だったけど、今作はそれが「雨天⇆晴天」というよりパキッとしたものになっていて、より強調されていたのでテーマ選びのうまさがとにかく光るな、という尊敬の念でいっぱいになったとさ。

そしてさらに「東京」の描写について。実は今作、東京はかなり汚い。それはいろいろな意味で。さらにいうと晴天も汚い。この意味文脈と実際の描画の隠れたズレがすごく観ている間にクセになってしまい、映画館を出てからもしばらく続いてしまうだろうなという気がとてもしている。

 

君の名はで触れたキーオブジェクトは流れ星。今回は水の波紋

映画のアイコンとなるようなムービングタイプのキーオブジェクトが登場している。前作は尾をひく流星の光。今回は水滴と水の波紋。これも、見た後に同じものをみたときにその映画のことを思い出すとか、そういう風につながってくるんだろうけど、より身近なものになってしまい、テーマ選びが(以下略

 

代々木の廃ビルもそのうちなくなるっていう儚さが強い

ひなちゃんが空とつながった(つながってしまった)というのが「代々木会館ビル」の屋上だとされている。これが実はもう1ヶ月ほど(2019年7月末現在)で解体予定とのことで、「なくなるものを聖地にする」っていうのが意図的にしろそうでないにしろ、やっぱり強烈な価値観や思想って形を失って初めて絶対的な影響力を持ちうるので、なにもかもがうまく進みすぎでは・・・?と思えてならない。

きっと語り継がれてしまったり、再放送やDVDで鑑賞されるたびにみんなの心の中に刻まれてしまうんだろうな・・・精神的な媒介を持つ、というのはたとえば宗教などでは偶像崇拝の禁止、ってところで大手どころがやってますよね。いやはや恐ろしい。

 

天気をマーケティングするってすごい。

偶然にも今年の7月は、記録的な超連続的雨天だった。日照時間が平年の14%しかなかった、という記録も残っているみたい。平年より14%低いとかではなく、平年の14%だ。とんでもない。

【参考】https://tenki.jp/forecaster/deskpart/2019/07/19/5303.html

天候とか、気温とか、あるいは災害とか、こういうものってマーケティングや何かをプランニングするときに、コントロール不能な外部影響とされることが多いと思うんだけど、重要なのは「何を届けたいか、届けるべきか」であって、考えるべきは「その時外部要因がどうだったら、どうすんのか」に尽きるなーと思った。

この辺は自分も諦めてしまっていた領域だけに、結構普通に反省してしまった。がんばろう。

 

前作よりさらにマイクロストーリーに舵を切った印象

つまり、「みんなの知らない自分たちの真実を大事にするんだ」と言う主義。セカイ系と言ってしまえばそれまでだけど、今作はそのセカイ系にすら「知るか」を投げつけていく。ここ20年くらいでエロゲやラノベ、アニメを中心に展開されて来たストーリーのお決まりテンプレートをしっかり否定し、ひっくり返し、超えていく。令和一発目というタイミングで素晴らしい舵きりだなと思った。

一方で、作品に対するインタビューで新海誠監督は「15歳の自分に対して描いた」とも言っており、つまりはいま10代だとか20代なりたての若い人たちからすると、この映画の終盤で、主人公である帆高少年が叫んでくれるあの言葉は、あらゆる観点からの救済になるのかもしれないと思った。

 

”世界はそもそもなにもかもが狂っていて、それは別に自分たちのせいではない。”

たとえそれが、”世界の形を決定的に変えてしまった”としても。

そう語ってくれる大人がいる。作中に出てくる、ちょっとだけ主人公寄りの、あんまり正しくない大人だ。その人もきっと、その人格を形成してしまった背景に正しさに殴られ続け、「仕方ない」として、賢く諦めて来た経緯があるのかもしれない。

でも社会的に正しくなくたっていい。そう言ってくれる人を認めてくれる人を、みんながみんなで求めているのかもしれない。

前作は「夢の中で入れ替わってたあの子に会いたい(救いたい)」が原動力だった2人が、今回はもっとシンプルに「ただ一緒にいたい」となった。

無論、それを阻むような大人の事情や運命などはついてくるものの、基本的にはそれに対して「うるせえ、知るか」というスタンスで挑んでいく。前作に2人を阻む障害は運命や入れ替わりの仕組みという無機物的な制約だったが、今作では「社会そのもの」や「大衆」といった、身の回りのあれこれであった点が、3年間かけて行われた1番大きなアップデートだったのだと思う。

また、さらにマクロな視点で観てみると、やはりバブル崩壊後の若者にとっての「自分ゴト」に最適化しているように見える。お金がない、大人はアテにならない、おまけに天気もよくない。この構図は作中で何人かがいう、「天気が悪くて、子供達はかわいそうね」という言葉によって、高度経済成長期を通してバブル崩壊まで体験した大人たちが今の子供たちに言いがちは「あの頃はよかった」にオーバーラップする。

 

 

これは、大人をあぶり出すリトマス試験紙なのかもしれない

つまりはそう。

もし仮にこのストーリーにしっくり来ないのであれば、それはあなたが十分に大人になり、そしてある程度満たされているからなんじゃないかな、と思った。

理不尽な運命を背負い、そのまま背負い投げをかましてしまうような今作は、基本的にはBUMP OF CHIKENなのだ。(RADWIMPSなのにね!!!)

自分も含めてだけど、”自分の持つ役割”との付き合いが上手い人からすれば、今回や前作の男性主人公陣のムーブは「いやいや無茶じゃん」とか「現実的じゃない」になるだろう。そして、今作においても、味方のように振舞っていながらにしてそういう人たちは出てくる。

でもそうじゃない人たちが確実にいる、家出をして来て東京の隙間で生きていく、正しさのレールに乗れないまま、肩身狭く暮らすことを強いられている人たちはいる。今日すれ違ったうちの何人かは、満たされず、社会や役割という枠に当てはめられ、そのギャップといまなお窮屈な暮らしを強いられているかもしれない、大して期待もしていない社会の仕組みに。こんなはずじゃない、でもそうしていなきゃいけないと言われている、別に信頼していない大人たちに。そういう人たちに共鳴し、そして鼓舞する作品なのだと思った。

 

今作のテーマは「役割からの解放」「世界との付き合い方」に集約されると思う。

もし、外部的な環境や要因から自分の在り方について悩んだり、ストレスを抱えている人がいるのであれば、『天気の子』を見ることによって少し救われるのかもしれない。世界はそんなに、気にしてない。

 

 

前作の人物たちがホイホイ出てきすぎ

「どうせ出してくるんだろうなー」って思って集中してると、あまりに派手に出て来すぎて笑ってしまうので、肩の力を抜いて見るのがいいんじゃないでしょうか。ほんとにどーんと出てくるし、出て来たら出て来たでちょっと嬉しくなってしまうあたり、簡単に手のひらの上で転がされている。ありがとうございますありがとうございます。

 

見終わったあと、まずは空を見上げてしまうので、たぶん新海さんの勝ち。

この映画、というか新海作品のすごいところは、「正義の圧倒的大勝利」という綺麗な読後感(観後感?)を与え切ってくれないことで、今日は晴れていたけど、この晴天の裏にもしかしたら自分や世の中の人々が知らないだけの、とてもハードなストーリーや事情があるのかもな、と何事においても考えるようになってしまった。

ともあれ、やっぱり空を見上げてしまって、「よく晴れてやがるわー」と確認してしまった時点で、新海さんの勝ちなのよね。

何が言いたいかというと、こんなきれいな雲ひとつない晴天にさえ、辛い思いやなにかを乗り越えたり、あるいは乗り越えられなかった人がいるのかもしれない。

人や情報が通信網によって24時間365日つながりまくるこの時代だからこそ、お互いが知らない物語や事情があることをそれなりに見越して、発信したりコミュニケーションを取っていく、それが今後の時代で必要になるお作法なのかもねってこと。

 

愛にできることはまだあるかい?と聞いていいのは、愛にできることをやりきったやつだけ。

この日本語も非常に巧みだと思っていて、ある程度意図的に意味がブレて伝わる余白を残しているのかもしれないって思った。

やるだけやりきったけど、まだ愛にできることは何かあるかい?(あるならやるよ)

そして

どうして愛にできることが、残っているんだい?(愛をもってやりなよ)

という文脈。

人は、もっと愛をもって動き、そして狂った世界のなかで、お互いに「大丈夫」を確認しながら生きていく、そういう時代へのメッセージのように受け取れた。

自分も含め、この役割からの解放を伴う「大丈夫」を、日本全体がひとりひとり求めているのだと、新海さんはそう思ったのかもしれない、そうでなくても、全国の10代の、1クラスに1人でも「この映画は自分のための映画で、自分は自分らしく、自分のために存在していいんだ」と思ってしまったなら、この映画は大成功だし、この上なく素晴らしいものなんじゃないかと思う。

 

より「社会とかいうクソッタレなシステム」に挑戦し、迎合しないことを認め合う世界へ

前作もかなりスケールの大きなストーリーに仕上がっていたが、今作もまさにセカイ(≠世界)を巻き込んで物語が進んでいく。そして主人公たちの下す判断やアクションが、より一層「社会とかいうクソッタレなシステム」に挑み、意思として迎合しないことを叩きつけるものになっている。それによりなにがどうなるのか、というのは実際に見てもらうのが一番いいと思うので、ここでは大して言及しない。

ただ少なくとも、主題歌となったRADWIMPSの楽曲、「愛にできることはまだあるかい」の歌詞にもあるように、”賢い者”と”諦めた者”だけの世界にならないように、そしてそんな世界で生きないように、自分自身をしっかりさせねばなと感じた。

 

事前の前評判や、自分自身のなかにいるオトナが少々ノイズになったが、夏を感じる非常によいボーイミーツガールだった。

世界の形は決定的に変わっても、世界の在り方は変わってないよ。だから、大丈夫。

そんな気持ちになったとさ。

 

でもやっぱり大人なので諸々の逃走劇の過程で生まれた埋め合わせがめっちゃ気になっちゃう。とくになつみねーちゃんの就活はどうなるんだってばよ。いい子なので採用したいぞ。

 

なんつって。