人事の季節ですね。そして就活の季節も開始したんだそうで。
この季節になると、自身のキャリアをどうするかとか、人材市場における自分の人材価値ってどんくらいなんやろか。スキルはついてるのか、次に会得するべき要件はなんなのか、などなど今と未来に考えをめぐらすわけです。
新卒のメンターなんかをやっていると、入社から一年経つとか、下(つまり後輩)が入ってくるとか、やっぱりいっちょまえに考えをめぐらすわけです。
この時期には個人的にも職務的にも進路やキャリアの相談を受けることが多く、「そういえば毎回この話してるなー」というのがあるので書き留めてみる。
Outlines
自分が掘った穴を埋めてエキサイトできるか?
自分が掘った穴を埋めてエキサイトできるか?という話。
自身が転職を決めてた2014年の夏ころ、「成長のためには自分で掘った穴を自分で埋めて、その中にも学びを見出すくらいの地獄の自責意識が必要だ」ということを言っていたのを発見した。相変わらず発言が狂気じみてるシリーズなんだけど、いまだからわかることもある。
「どんなことにもエキサイトせえよ」という話
つまりは、この世に学びのない仕事なんてなくて、それは結局学び取る側の意識や視座が低いからだろう、という理論。
なるほどなるほど。どんなに地味でも些細な仕事でも、成長させる要因があるはずだ、と。
一理ある、というか六理くらいはある。
よく、世間ではコピー係・お茶くみ・掃除係などが取りざたされるけれど、そのひとつひとつに誰かを笑顔にし、価値を生む要素が備わってるので、どんな仕事も馬鹿にせずやれ。というお話。
結論から言うと、新卒から2年間くらいは、これでがんばってもいいとおもう。なぜかというと、だいたいの経験が自分にとって新しい経験で、学びの効率がいいからだ。
あたりまえなんだけど、同内容の作業を繰り返すと、その分学びの効率は下がっていき、一方で習熟が進んでいく。ただこの習熟自体も繰り返すたびにしまいには効率限界を迎える。
では大人になったらどうすればいいのか。
「自分で掘った穴を埋める、そんなことでエキサイトできるか?」(反語)
いいやできない。(反語)
こうなるんです、大人になると。
結局、仕事の品質は選べ。というのが20代後半になってぶち当たった壁だった。
どんな些細なことにも学びはある、学べないとしたら、それは自分の意識が低いからだ、という自責の念でやってきたものの、とうとう多くの仕事が成長限界を迎えてしまった。
ということで、自分の場合は転職をしたのである。
業務領域や扱う金額、ユーザー規模、世の中への影響力や施策の反響などが、急に拡大し、もともとは広告のみだったスペシャリティが、SEOやコンテンツ、アライアンス、集客計画や戦略の策定および起案などに広がった。これによりまたそこで新しい経験を積むことになり、1年前、2年前とはまったくことなる経験や知見を溜めることができた。
そして此度、また業務領域をさらに広げるようなキャリアの選択を行った。
やっぱり、「違った畑」で手に入る初見の知識や経験、ノウハウを得ることで、できることや思考の幅が広がるというところの旨味を完全に覚えてしまった。
稀有な人材の目指し方は、掛け算である。
非常によく言う話だ。マーケティングをやっていれば当たり前に意識される、差別化戦略だったり、プレースメントの話だったり、人生にはたくさんの「面」がある。
その業界や会社、部署では当たり前かもしれないスキルが、別の環境では非常にありがたがられることもある。そこに価値のレバレッジポイントがある。
「ニッチだが〇〇にちょっと詳しい」が3つ揃えば、自分と同じあるいはそれ以上の人材はそれなりに少なくなってくる。この手札で勝負をする。
効率よく、らせん状に駆け上っていく
キャリアや仕事の良し悪しをどう定義するのか、それは個々人それぞれにものさしがあろうと思うのだけど、例えばそれを「決裁権や自由・責任の大きさ」だったり、「報酬」だったり、あるいは「肩書き」みたいなものだったりしたと仮定する。
そういうのは、真下から垂直ジャンプで狙いに行くこともできるんだけど、個人的におすすめするのは「螺旋状に駆け上る」ことだ。
さきほども言ったように、複数のスペシャリティ掛け合わせにより、自分と市場のレアリティが定義される。レッドオーシャンもあれば、ブルーオーシャンだったある。
そして自分にはそれを選ぶ権利がある。実力が伴えば、手に入ったりする。
いまは実力がたら勝ったとしても、日々そこまでいけるように頑張ることはできる。
今の自分と、なにか別の領域を掛け合わせて自身を表現する。
そうなることで見えてくる世界もあると思うんだ。
自責と可能性を組み合わせて過ごそう
仕事をしていれば、ミスは起こる。予期せぬ出来事も起こる。それにより、損失を伴うこともある。当たり前だ。
そこから学ぼう。そもそもなぜ起こったのか、どのようにすれば防げたか、実際起こってしまったらどのようにすべきだったか、起こさないようにするにはどうすればよかったか。そして、自分には、それぞれ何ができたか、どうすべきであったか。
ミスを記憶することはそれ自体になんの意味もないばかりか気分が重くなったりするだけなので、さっさと忘れて、それが起こった要因や前兆の検知、対策や解決方法だけを覚えていればよい。それだけでよい。
— 高橋 流れ人 (@Tklt_05) March 18, 2019
もちろん自責はしんどい。全部自分が悪い気もしてくる。ただ、そうではない、起こったことを防げたという後悔にビジネス的な価値はない。ただ、今後怒らないようにすることにのみ価値がある。
さらに、自分の現在のファンクションで対応できるものでなかったとしても、自責を持って想像してみよう。2年後、5年後、10年後、自分や自分が身を置く環境が今のままだと思わないほうが現実的じゃない?
ありがたい教材として受け取る。働いてたわけだし給料ももらう。そして自分は将来に目を向ける。
それが社会人生活なんだと思うのよね。
っていう話を毎年この時期にだいたい5回くらいするので、まとめました。
がんばっていこうな。
なんつって。
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